詩人の吉野弘さんは、
「祝婚歌」や「奈々子に」といった
やさしい作品がよく知られている
イメージだ。*1
たとえば、この「歩く」なんてのも、
清らかな情景にあふれた、
言葉がキラリと光るような詩で、
わたしは気に入っている。
太陽を睫ではじきながら歩く
太陽を頭にのせて歩く
太陽を髪の波間に泳がせて歩く
彼のいる楽しい青春を歩く
彼のいない淋しい青春を歩く
彼がいないと私もいない青春を歩く
喜びのあとにくる涙の中を歩く
涙のあとにくる孤独の中を歩く
孤独のあとにくる新しい今日の中を歩く
(中略)
星屑を目ににじませて歩く
星屑を睫で梳きながら歩く
星屑を髪の波間に泳がせて歩く
けれども、この「刃」という作品は
どうだろう。
なめらかに圭角のとれた
かしこい小石を
思うさま 砕いてやりたい。
砕かれて飛散する忍従を見たい。
(中略)
するどく他を傷つけ 自らも傷つく刃から
すべてをはじめるようにしてやりたい
刃を自他に容赦しない 無数の石の
かけらの間から
新しい思索と生き甲斐とが
苦痛と共に語りはじめられるのを
聞きたい。
「砕いてやりたい」や
「飛散する忍従を見たい」、
「苦痛と共に語りはじめられるのを」と
なかなかサディスティックである。
でも、きらいではない。
なんか吸い寄せられるように、
読みたくなるのだ。
わたしのなかにもこの作品に通じる
狂気じみたものがあるのだろう。
それが、歪んだものを求める。
もっと傷をえぐってくるような作品もある。
でも、怖いものみたさで読んでしまう。
なんというか、
わたしもそういう人なのだと思う。