ある登場人物が意中の相手と近づける可能性があったのにもかかわらず、それっきりになってしまうのを恐れて約束を断っていた。相手から声がかかったということはチャンスなのだから喜んで乗ればいいのだけれど、二人で過ごして逆に自分が悪く思われないか不安になったのだろう、それだけその人物の相手への想いが強いということだ。待ってましたといわんばかりに、浮足立って前のめりに返事をするであろう自分にはわからない気がしたのだが、そうでもなさそうだ。
たとえば、それっきりになる状況というのはどういうものなのだろう。まず、とんでもなく相手を傷つけたり侮辱したりしたときだろうか。しかしこれは、意中の相手なのだから、マナーを持ってしても言動には注意して接するだろうから、該当することは少ないだろう。まだそこまで親しくなっていないならなおさらである。
次に考えられるのは、相手に自分が「合わなかった」ときだ。自分の中だけでどんどん相手を大きくしてしまい、気がついたら自分の理想像のようなものを相手に投影してあたかもそれが現実かのように思ってしまうときがある、私がそうだ。だから、その理想から相手が外れたら合わなかったなどと勘違いし、絶望したかのようになる。また少なからず相手もこちらに対しての理想のようなものを持っており、若いときは特に、その理想と現実のギャップから二人の気持ちが離れてしまうときもある。
何もかも自分の望み通りの相手などがいたら、それは人ではないかもしれない。そのギャップについて、二人で争ったり話し合ったりしながら、どうにか過ごしていける相手かどうかということなのだと思う。ついぞんざいに冷たく当たってしまうこともあるのだが。
「自分がつくった相手からの自分への理想」と違うことは、自分の弱みだと思っていたし、弱みなんか見せたらもう会うこともなくなるとか思っていたけれど、そういうわけでもなく、部屋が散らかっていても、少し口が軽くても、予定が立てられなくても、どうにかやっていっている人たちを見てきた。
大人といわれるようになってから、私は人に弱さを見せるのが下手になった。効率さと迅速さのなかにあって、弱さを見せることは悪、のように追いつめられ、それはある空間、たとえば会社での尺度だったと気づく。ところどころで、たとえば親しい人には弱さを見せるとか、どうやら弱さを見せる使い分けというものがあったらしい。どこへいっても弱さを見せられない自分は飛び抜けて不器用であったと思う。
弱さを見せられるようになったことは成長だ、みたいな話を先日友人としたけれど、それがほんとうに成長なのかはわからない。しかし、少しではあるけれど弱さを人に見せられるようになって、楽になった。それは、幻想であっても、弱さのある自分でいいと自分が思えたからかもしれないし、弱さを受け止めてくれた人たちがいたからかもしれない。
だからとにかく、それから登場人物が恐れず相手に向かっていくことにして、本を図書館に返した。