起きている間にあったことからいろいろと考えたりして、それを人に話したりしてまた考えたりして、それをここに書いたりしてまた考えたりしている。
ここに文章を書くとき、私は画面に向かって文章を書きながら一人で考えてはいるものの、実際に関係のある人たちとの出来事などから着想を得ているのだから、一人で考えてはいるものの、また誰かと考えていることにもなるのではないかと、また雲を掴むようなことを思った。
そうはいっても、自分の考えたことを表現する場所というのは、少ないより一つでも多い方がいいだろうし、結局考えているのは自分自身なのだが、自分の回路だけなのか、誰かと一緒に考えるか、自分の考えを文章にして第三者のようなところから考えるのか、考える組み合わせがあるのは面白い。おそらく、自分、誰か、自分の文章の三つで考えたときですら組み合わせが増えるわけで、展開もきっと限りなく限りがなく、結論やまとめなどいらなくたって、考えることがどう転ぶかはそれぞれ異なっていて、そこが宝探しのように気持ちを駆り立てることがあるのだ。
宝というものは、やすやすと見つからないのであるから、あっけなかったりすっきりしなかったりもどかしかったりやきもきしたりもする。何か道具がいるのではとなって、誰かに会ってみたり、先人の言葉を読んだり、一人で散歩をしてみたりもする。そうやって宝にありつけるかというとそういうわけでもなく、行きついたところに石ころがあったとしても、ああ、何かとにかくいろいろ考えましたということで、その考えること自体が宝のように思えてくることがあるのは、私がブログを書くようになったからかもしれない。