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親も先生もスーパーマンではない~小池昌代「わたしたちはまだ、その場所を知らない」~

親も先生も、完璧ではないと
知ったのはいつだっただろうか。

小池昌代さんの「わたしたちはまだ、
その場所を知らない」を読んで、
そんなことを思った。

国語の教師である女性の坂口と
中学校の生徒ミナコとの、
詩を介してのつながりを描いた小説。

 

坂口はミナコに目をかけるけれど、
彼女はその好意を重たく感じてしまう。

ミナコの校内のコンクールで一位になった
作文に刺激を受けた坂口が、
若いころに書いていた小説を
再び書こうと決め、書き終えて
一番にミナコに読ませるところが、
ストーリーの山場であると思われる。

ミナコはその小説を「つまらない」と思い、
坂口に人としてのさびしさを感じる。

もはや二人の
先生と生徒という関係はぼやけ、
人と人の心のぶつかり合いが起こる。

先生とは、いつの時代も、ずっと先を行く達人なのだ。いつか越えようと仰ぎ見る山なのだ。(中略)
だが、その山が、以前より、いきなり、ひょいと低くなったような感覚に、ミナコはいま、とらわれていた。そして不思議なことに傷ついていた。

小説に坂口の内面を見たミナコは、
そこで今まで高い山だと思っていた先生が、
一人の人だということに気づく。

ミナコはかなり感受性が高く、
大人びているところがあるため、
中学一年生にしてそのような
解釈ができたのだろう。

わたしが中学生のときなんて、
先生は先生で、やはり特別な存在、
仰ぎ見る山だった。
親も同じである。

わたしはあまり積極的な
子どもではなかったので、
身近な大人といえば、親か先生だった。

彼らは何でも卒なくこなす、
スーパーマンみたいに見えた。

そうじゃないと腑に落ちたのは、
大学生から社会人にかけてである。

初めての一人暮らしで親のありがたみや
家を回していくことの大変さを、
社会に出てその厳しさを知る。

行き詰まったとき親に相談すると、
「同じ歳くらいのときはね…」と
後日談を教えてくれたりする。
何にもわかってなかった。

先生たちの、釈然としなかった
あのいくつかのふるまいも、
納得できるようになった。

そこに、悩んだり、怒ったり、
悲しんだり、迷ったり、
焦ったりしてやってきた、
一人の人としての姿が見えたから。

まだまだ彼らと同じ土俵にすら
立てていない気はするけれど、
「少しは大人になったよ」くらいは、
笑って話せるかなと思う。