語る、また語る

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「認められたい」に区切りをつける

「認められたい」気持ちというものは、
あたりまえにあるものです。
別に「認められたい」と思うことは、
わるいことでも何でもないでしょう。

近しい人に認められたい、
一員になっている組織に認められたい、
漠然と社会に認められたいという人も、
いるのかもしれません。

わたしは、社会に認められたいと、
思ったことはないと思っていましたが、
どうやらそうでもなさそうでした。

自分の属性(家族や学歴など)が、
自分がいる社会において、
「そうあることがよい」と
されているとき、社会から
認められていると感じるのだそうです。

ということは、わたしも、
すべてではないですが、
社会から認められるであろう選択を
暗にしてきたということです。
そこに無意識にでも、
社会に認められたいという気持ちが
なかったとはいえません。


会社にも「認められたい」と
思っていました。
むしろ「認められなくてはならない」と
思っていました。

そもそもどういう状態が会社に
認められていることなのか自体を
考えることもしないで、
「認められなくてはならない」に縛られて、
闇雲にかつネガティブに働いていました。


ここまで「認められなくてはならない」に
こだわっていたのはどうしてなのか。
答えはわかっていました。

わかりきったことだったのに、
10年以上見て見ぬふりをしてきました。

わたしは自分の「母親」に
認められたかったのです。

ほかにもいくつか理由は
あるのでしょうが、根っこには
その気持ちがありました。


わたしには、とても勉強ができ、
頭が切れる弟がいます。

母も周りも、
弟を褒めてばかりのように見え、
思春期になるころには、
くやしいような悲しいようなで、
弟をライバル視するようになりました。

よくよく考えると、
母も周りも弟を褒めてばかりと
いうわけでもなかったとわかりますが、
むかしは、そう思えなかったのですね。

母に認めてもらうには、
弟を越えられるように、
がんばらなければならないと、
部活や受験に挑み、社会人になっても、
それを引きずっていたというわけです。

会社で認められれば、
母に認めてもらえると。


母はわたしを認めて
いなかったのかというと、
そんなことはないと思っています。

2シーズンに1回会い、
1週間に3回は電話している今、
それだけで十分です。

わたしはおとなしい子どもでしたが、
おとなしいゆえに、自己主張することも、
甘えたい気持ちもしまい込んで、
さびしかったんだと思います。


ここへきて、
母親に認められたかった気持ちに、
区切りがつきました。

揺らぎながらも、
わたし自身を認めることもできます。

もう、誰かに認められるためだけの
自分ではないのです。