語る、また語る

いつもにプラスα

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未知に膨らむ

事の道理をとくとくと言い聞かせてみても、どこまで実感をともなって受け止められているかは定かではない。

具体的な経験と結びつけて抽象的なことを話して、また具体的なことがあって抽象的にまとめようとして、そうかこういうことなのだろうかとわかってくるのだから、こちらが急いでもいけないようだ。


今の大人といわれる歳になってから二十年、やっと親の伝えたかったことがわかる、そんな気がしている。口で言うことの加えてむしろ親の生活する姿から、子は何かを感じるものなのかもしれない。


父はとにかく「身体が資本」と言う人である。そんなに身体をいたわっているようには見えなかったが、年明けの食卓や晩酌のときには決まって「身体が資本」と口にしていた。自分のために言っていたのかもしれない。年齢が足されてくると、ますますその言葉の重みがわかるものである。

母は「頭を使え」と言う人である。手間をかけずに、身体を動かさずにできる環境にあっても、それに胡坐をかいていてはいけないというのである。中学校は車で十分くらいのところにあったが、雨でも送迎してもらったことがかなり少ない。駅までは歩いて一時間以上、バスも一時間に一本という立地にあって、バスか雨具を着て自転車に乗るしかなかった。車で行くのは楽ではあるが、楽をするのもそれがなかったときのことを知ってからにせよという暗示だったと、勝手に戒めにしている。

二人に共通しているものとしては、自分は自分という信念だろう。人に迎合しないため、親しい人もいたが、子どもからしたら孤立しているように見えた。しかし、それがどれだけのことかと、正反対だった自分は思うわけである。


自分がそうだったように、おそらく他者がどれだけ何かをどうしたところで、当人に委ねられるところがあるということだ。だからといってこちらが示すことはやめないが、自分の知らないところで良くも悪くも、当人が何かを見つけて膨らませていくはずだ。