語る、また語る

いつもにプラスα

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わかりあえない

相手とわかりあいたいのに、わかりあえない、
と虚しくなっていたときがあった。

ここでいうわかりあうとは、相手に完全に
自分をわかってもらうことを意味する。

そもそも完全にというのは難しい。
そのときは意識していなかったが、
私には誰にも知らせない領域があったし、
これからもあるだろう。


どうしてわからないのだろう、
どうしてわかってもらえないのだろうと
悶々としていたわりに、自分が手を変え品を変え
伝えようとしたかは、甚だ怪しい。


自分は気が弱いところがあり、
相手に主張せずに、悔しい思いをしたことが、
特に仕事において想起される。

心理的安全性はさておき、
相手と自分の違いを擦り合わせる自信もなく、
それを身につけるための経験も心もとない。

見方を変えると、そのいくつかの
悔しさなどがあったから、相手にいかに伝えるかを
こうして考えるようになったのであるが。


ブログの世界に来て、もうすぐ2年になる。

いろいろなブログを読む。
多種多様な着眼点、感性、意見、
価値観、言葉がある。

どうしても人と直接話すとなると、
が流れていってしまい、相手のことを
冷静に受け止められないときもある一方で、
ブログというものは少し距離を置いて、
落ち着いて相手(の書いた文章)を
眺めることができる。

ブログを読んでいると、相手と自分の
重なる部分を見つける。
相手との違いにも気づかされる。

こんなにたくさんの着眼点、感性、意見、
価値観、言葉持った人がいるのだから、
自分と完全にわかりあえる人なんていないのだと
妙に爽快な、それでいて温かい気分になる。


いろいろな人がいる。

接触を避けられない、自分と違った人と
どうにかやっていくために、
友人と同僚と先輩と家族と何回も口にした。

ずっと味のない食べもののようだったが、
ブログを書き、読むようになって、
その味が少しわかるようになってきた。

現在も、関わっている人と
わかりあえることを欲している。

しかしそれは、
完全にわかってもらうことでもなく、
「わかりあいたい、でも、わかりあえない」
という諦めでもない。
「わかりあえない、でも、わかりあいたい」から
伝えていくという、小さく、でもすぐには消えない望みである。


読み直した本:平田オリザ『わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か』、講談社現代新書、2012年
数年前に、あからさまに「わかりあえない」で検索して知った本でした。