日常に小さな諍い(いさかい)は付きものであるが、小さな諍いであってもそれを相手のせいにしてしまうことがある。身内に対しては期待が大きくなるからか、けっこうそうなる。
反対に、自分のせいであるとすべてを引き受けそうになるときもある。少し距離のあるところ、たとえば職場において陥ることがよくあった。
アン・ディクソン著「それでも話し始めよう アサーティブネスに学ぶ対等なコミュニケーション」に以下のような記載があった*1。
得てして私たちは、自分は被害者であるとか自分のせいではなかったと主張したくなります。でも本当に無力な子どもでもないかぎり、あなたは自分から動き出す選択肢を持っていたはずです。他のやり方を知らないために、または何らかの報復を恐れていることで、この選択肢は制限されてきたのかもしれません。(中略)
誰かとまっすぐ向き合って話し合いをするときには、問題となっている現在の状況に対して、自分にはどのような責任があるのかを考えてみるといいでしょう。相手とあなたの責任は五分五分です。
諍いというものは、自分の言動に相手が反応する、相手の言動にということの連続でもあると思う。そうなると、たとえば相手が怒っているのは相手の事情*2で怒っているものの、相手の反応を引き起こした言動をとった自分にも、二人の諍いという点では責任があるということなのだろう。著書では、「相手とあなたの責任は五分五分です」とまで書かれている。
これは、少なくとも相手が怒っているのは、自分には関係ないというスタンスは考え直す余地があるということだ。自分にすべて責任があるというのも偏った思い込みになる。
自分は諍いは好まないけれど、自分から諍いを拡大しているようなきらいもある。自分がいけなかったとしたものの、納得はいかなかったこともある。責任は五分五分ですと言われると、諍いをやめて話し合おうという気もしてくる。
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