1995年、今から27年前の本だった。
長いこと、書庫に保管されていたのだろう。
本を開くと、古い紙のにおいがした。
いやな感じはしなかったから、
わたしは思わず鼻を本に近づけて、
においを嗅いだ。
図書館で、稲葉真弓さんの本を
いくつか借りてきた。
一人の女性たちのひそやかな日常を
淡々と描いているストーリーが多かった。
柔らかな筆遣いのいたるところに、
散りばめられている情緒。
一語一語をかみしめながら、
丁寧に読んでいく。
ぜいたくなひとときだった。
巨大な図書館の地下書庫で働く女性が、
間違え電話をきっかけに二人の男性と
しばし魅惑的な交流をしていく「声の娼婦」。
大きく開かれた都市の空を、無数の電波が走り回り、相手を求めて絡みあい、痙攣し、火花を散らしているのが見えるようだ。どこへ行くのだろう。私はぼんやりと思う。みんなどこへ行くのだろう。行くところなどあるのだろうか……。ただ私には、ゆるやかに続く日常の見えない地平線に、盛り上がっては震えている突起したもの、声の放物線が見えるだけだ。
まだ携帯電話など普及していなかった時代。
静かな夜に、だれかとだれかが、
固定電話でそっとつながっている。
その人たちだけしか知らない秘密めいた
やりとりが浮かんでくるような美しい文章だ。
去っていった男性への想いを
ゆっくりと断ち切っていく「草宮」。
女は熱い炎で前面を焼かれ、背面は冬の深夜の冷気に体を預けたまま、耳を澄ますように立っていた。炎の中でぐるぐるとほおずきの玉が舞っているようにも思えた。薪の形が崩れるとき、もっと大きななにかが崩れる音を聞くようでもあった。
思い出のほおずきをお焚き上げに放り、
燃やしてなくしてしまうことが、
失われたふたりのつながりを
象徴しているようだ。
新聞と雑誌の切り抜きを
情報として提供する会社に勤める女性が、
台風の季節にとりとめなく過去の
感傷にふける「黄昏」。
ガラスの大きな窓の下には、吹き寄せられた木の葉がうずたかく積もっていた。空気は乾いて、喫茶店を出るとガラスにぶつかった風が下からスカートを一杯にふくらませた。あのとき、私は外へ外へ流れていく自分の血の色を見ていたように思う。男の方へは流れずに、どこか遠いところをめざして解放されていく血の流れ。その勢いに驚きながら走るように秋の町を歩いていた。
生きている証拠である血の流れの
向かう方向によって、
男性から気持ちが離れていく様が
鮮烈伝わってくる。
どの作品も、もの寂しさはあるものの、
ゆったりとした流れの中に、
ほんのりあたたかなものを
感じることができた。
ところで、本を読むのは、ほぼ家だ。
家だと、畳に座るか、寝っ転がって、
存分にくつろいで読んでいる。
人によってカフェだったり、
図書館だったり、
暑くなければ公園だったりするのだろうか。
少しずつ秋めいてきているので、
読書の秋というのも、よいですね。