そうしたいのにできない、自分だったらこうする、
などの対自分、対相手の「葛藤」に消耗する。
単に手元無沙汰だから、葛藤に目が行くのか。
でも、それだけではないと思っている。
むかしは、そもそも感情と
向き合っていなかったために、
あったはずの葛藤に気づかなかった。
葛藤という言葉すらピンと来なかった。
自分にも相手にも、意識しては何もせず、
葛藤らしきものがあっても面倒になりそうなら、
相手に合わせる。
言いたいことをその場で言いもしないのに、
後から身近な人に文句を言う。
状況にもよるけれど、我慢したり溜め込んだり、
そんなことを続けていたら、
そりゃあ病むのもうなずけます。
そしてようやく内外との格闘を経て、
自分と相手に対しての「働きかけ」を
変えることができると知ったのだった。
葛藤に働きかけた結果はわからないし、
それは相手とのやりとりによるけれど、
こちらから働きかけることはできるのだ。
もうひとつは、自分の「意思」を
掴めるようになってきたことだ。
これも心が患ったおかげであるけれど、
むかしは、他者の意思が自分の意思だと
思い込んでいるところがあった。
こうだと思っても、それは誰かなり、
世の中の雰囲気が反映されていただけで、
実際はどうなんだと聞かれたら、
疑わしいのだった。
自分の本心がわかるからこそ、自分の建前や
相手の感情との葛藤を強く感じるのだ。
葛藤は苦しいものではあるけれど、
その先にあるかもしれない融和のために、
行動できるときはしてみようと思っている。