何も話さなくてもいい。
ただそばいるだけでいい。
読み終えたあとに、
少しのぬくもりと、
哀愁を感じる詩がある。
吉野弘さんの「犬とサラリーマン」だ。
また来た。
ビスケットを投げたが やっぱり食わない。黙って僕を見つめている。
始めて来たとき 魚の骨を投げた。食わなかった。そのあと 来るたびに 何かを投げたが 一度も食わなかった。
(中略)
その夜 僕は黒い犬と一緒にいた。僕は犬に何も与えず 犬も欲しがらず 黙って一緒に居た。星が美しく 犬の眼がやさしかった。それ以上に僕の眼がやさしかったのかも知れない。
しばらくして 犬は 飼犬の経験を話そうかと言ったが そうすれば 僕はサラリーマンの経験を話さねばならないだろうし 身の上を慰め合うのはつらいから よそう と僕は答えた。
そんな淋しい夢を抱えて 僕は翌朝 いつもの道を出勤した。
吉野弘さんは17歳から帝国石油に入社し、
途中、石油資源開発を経て、
36歳までの19年間、
会社員として勤務している。
その後はコピーライターをしながら
詩の発表を続け、
文筆を専業としたのは、54歳のときである。
敗戦の1年前に徴兵検査を受けたが、
入営予定日が昭和20年の8月20日だったため、
入営しなかったという経歴がある。
また労働組合運動にも参加し、
その過労により24歳で肺結核を発病している。
これらの紆余曲折の境遇が、
もともとの高い感受性と結びつき、
詩の創作へのバックボーンに
なっているのだと思わずにいられない。
詩の初投稿は26歳のときであり、
この「犬とサラリーマン」は、
27歳のときに発表したものである。
自身もサラリーマンであったことから、
「身の上を慰め合うのはつらい」と
あえて犬と何も話さないというところに、
なにやらその苦楽が垣間見える。
特別に身の上話をしなくても、
ただ共にそこにいるだけで、
互いの存在に救われている
一人と一匹の姿に親しみを感じるのだ。
人と人だって、同じだ。
参考文献
吉野弘 著「幻・方法」、日本図書センター、2006年
吉野弘 著「吉野弘全詩集(新装版」、青土社、2004年