語る、また語る

いつもにプラスα

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背表紙に感情が絡まる

連休になると物を整理したくなるものでもあり、増えていく物に目をやろうとするのもまた連休である。整理することは楽しいのだが、着手するまでが長い。棚にある本とCDの背表紙を見ながら、もう手元になくてもいいものがないか考える。

十年くらい取っておいた本があった。ほんの数秒でもうこれは売ろうと思った。自分は、いらなくなったものは、よほどのものではないかぎり中古品を扱っているお店に売りに行く。オークションとかフリマアプリなどもあるが、売れるまで保管しなければならないのと、出品と発送が煩わしくてやっていない。あまり金額は期待できないが、すぐに物がなくなる方がよいのだ。

さて、その売ることにした本であるが、あなたはこれこれこういう人、という本であった。自分がどういう人なのかを、誰かに決めてもらってそれを暮らしの糧のようにしてきたところがあったけれど、もう十分である。これからは別のところで誰かを助けてほしいと思う。

また、ある料理の本を手に取って迷った。まったく使っていないが、これまた十年以上経っていることが、映像とともに再生される。仕事で疲れていた週末に、単身アパートの近くの書店にいる自分。むかしから、野菜をたくさん摂取することを強いている部分があって、自分がつくる同じ品にも飽きてきたから、新しいものをつくろうと選んだのだった。ある書店のどのあたりの棚にあったかも忘れていない。朝早くに行って人もまばらだった狭いフロアや、一回買うのをやめて出口にさしかかったところで戻って本を取りに行ったことも浮かんできた。その物を見ただけで、これだけ当時のことがあふれてくるのだから、しばらく取っておくことにした。

そういわれると、当時の感情や周辺のエピソードが出てくる背表紙だけが棚に並んでいる。帰省したときに地元の個人お店にあった方言の本、たまたま平置きされていた新書、お世話になった人からいただいたテキスト、ライブハウスで手にしたアルバム、躍起になって集めたCDたち、気づいたら届いていたアーティスト自伝、など。それぞれ重い気持ちと、わずかな明るさが合わさっている。

目下稼働している本やCDは、別の棚にあるけれど、背表紙を見てもあまり感慨深くはない。それはまさに今だからである。それらが保管されるようになったとき、自分はまたしばし耽ることになるのだろう。