語る、また語る

いつもにプラスα

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見ようとすると見える

児童書を読み聞かせるとき、どこかで、作者の伝えたいことを読み取ろうとして読む。そうやって読むのと読まないとでは、受けるものが違うのである。

真っ新な気持ちで読み、そのときに感じることをおもしろがることもできる。一つひとつの記憶のピースがつながることもあるし、なるほどと膝を打つこともある。一方で、いちいち文章を深読みすることもできる。

昔話などで、幸せに暮らした主人公にめでたしめでたしといきたいところで、追いやられたものことを想像し、言葉にする。幸せに暮らした主人公にも追いやられたものにも言い分がある。どうしたらどちらも幸せになれたのか、夢のようなことを考えている。


子どものころに児童書を熱心に読んだわけでもなく、何を読んだかあやふやである。だから児童書を読みたくなるのかもしれない。あるいは、子どもといても自分の子どものころの気持ちなんて薄れていて、大人としての見方しかできなくなっていて悲しいからかもしれない。もしくは、自分の子どものころを愛おしんでいるのかもしれない。

覚えているのは、花言葉の物語とかギリシャ神話、森絵都さんの作品くらいである。どれも内容はさっぱりであるが。ギリシャ神話は十二星座をきっかけに読むようになって、図書室の棚に借りたい本が返ってくるのを今か今かと待っていたものである。三年生くらいになると友だちといる方が楽しくて、夏休みの読書感想文くらいしか児童書を開かなくなっていた。読書感想文とは、子どもに無理にでも読書をさせるものでもあったのだ。

絵本を誰かに読んでもらったことも忘れている。自分が興味を示さなかったこともあるし、活発な弟たちが家にいれるはずもなく、それより外に連れていかれたような気がする。母も子ども3人と家に缶詰なんて、ホラーだったことだろう。


読書をして何を思うかがその人の自由であるように、目の前の出来事をどう見るかも一人ひとりに委ねられていて、私たちはそれを見たいように見ている。また、意識しなければ、見たくないものは見えない、さらに見たくないようには見ないのかもしれない。それが自分を守ることにもなるし、自分を痛めつけることにもなる。

自分は何をどう見たいのか定まらないこともあるけれど、いろいろな見え方がした方がいいし、いろいろな見方ができることばかりである。