語る、また語る

いつもにプラスα

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羨んでも自身に戻る

先日、久しぶりに強く人を羨ましいと思った。

生まれたときからの関係性があり、自分にはとうていできないことをなさっていて、自分がやろうとしてもできるものでもない。人がやらないことをやる、ということに自分は価値を見ているらしく、その人の独自性が羨ましかった。

ここから自分なんての否定に走ったのだけれど、そうはいっても自分ができることではないのだとまとめに入った。なげやりではなく、まったくのあきらめでもなく、自分への温かい納得である。こうなったらいいのにとかこうしたいもあるけれど、もう朝が来てくれればそれだけでうれしいような漫然とした気持ちだ。羨ましさははあれど、それで悲観的にならなくてもよかった。

自分が好きとかそうでもないとかはどちらでもよくて、自身のその手で自分を動かしているという自在の手触りがある。これまでのことがふわふわした幻のように思われたのは、その自在の手綱をつかまずに動かしていたからかもしれない。

そうはいっても、くたびれるときもあるし、感情だけどんどん進んでいくときもある。ただ、それすらも手綱をつかんでいるから安定していて、不調なのも感情的なのも「自分」がそうなっていると安心すらすることがある。不安定だけど安定している。この矛盾のなかに自分がある。