語る、また語る

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貼りつけたらはがす

友だちになったオオカミに食べられてしまうことを恐れ、穴から出てこなくなったウサギとオオカミのやりとりが展開される物語があった。

オオカミとウサギは友だちでもあり、食べる側と食べられる側でもある。また話の中で、ウサギはオオカミに、遊びや読み書き、魚釣りを教える。ここでは、ウサギが教える側でオオカミは教えられる側になる。

自分と相手の立場をこれといって考えるような環境にいないけれど、私たちは何かにつけて何かを分けている。自分と相手、親と子、兄と弟、話すと聞く、投げると打つ、あげるともらうなど。

それは何が起こっているかをわかるようにするためでもあるし、何をどうしたらいいのかを判断するためでもある。そして、ときに分けてから、その上下関係や、優劣、強弱、勝ち負けを貼りつけている。

たとえば始めに書いた、食べる側のオオカミを強者として、食べられる側のウサギを弱者とする。しかし、それは食べることを軸にした場合だけである。オオカミはウサギだけを食べているわけではないとはいえ、ウサギを食べなければ生きていけないのなら、オオカミの方が弱者なのではないか。

何をもって何のために分けるのかにもよるけれど、そこに強弱などを貼りつけても意味のないこともある。貼りつけたものがそれらしく見えても、それが不変なわけでもない。自分の傲慢さから分けて何かを貼りつけたなら、剥がすのもまた自分である、とどこかの本にあった。