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「誰かと比べて悲観する」への処方箋:自分宛て

中途半端に負けず嫌いで競争心が強かったのか、むしろ振り落とされる不安がそれらをかき立てていたのか、随分と尖っていたものである。

思考は使えば使うほど強くなるという。誰かと比べて悲観的になることが得意になった。

誰かと比べて悲観することは辛いことだからしたくないと思ったし、"してはいけないこと"をしているように感じられた。

人が書いたものを読み、自分に照らし合わせながら状況を変えようとするなかで、感情は感じるものであって否定しなくてもいいと納得した。ブログにも時折書いてきた。

誰かと比べて悲観しないためにどうするかなんていう意識を持っていると、身の回りの出来事や情報たちが、ふっと自分の中に入ってきて、ふと気づきを得られることがある。まるで植物が芽を出すみたいに。

自分なりにまとめるなら、別に誰かと比べたかったら比べてもいいし、誰かと比べて悲観してもいい。悲観したままでいるのも悲観を行動の出発点にするのも、自由だということ。

そもそも誰かと比べることは、絶対的な尺度ではないのだ。それなのに、たまたま近い場所にいたり、会ったことがない人でも勝手に同じ土俵に上げてしまったりする。

相手は、生まれも育ちも考え方も価値観も、遺伝子も違う異なった人なのだ。比べることをしないとは言わない、比べることも比べられることも必要なときはある、でもそれはそれで一つの視点である。


誰かと比べて悲観するときは、劣等感とか嫉妬とか羨望とか、複数の気持ちが入り乱れているものだ。そしてそれらの背景をたどっていくと、自らの欲求が隠れている。承認欲求があるとわかると、ああまたかと思う。自分はそんなに認められたかったのかと同情する。思考が自動化しすぎていて、誰に認められたいのかわからないこともあった。

悲観の先にある欲求は、自分にとって本当に大切なものかを問い直そう。

近ごろ誰かと比べることについての捉え方が変化したので、散文ではあるが文字にした。

よく聞いたことばかりだけど、納得するまでは時間を要する。根拠はなくても、感覚でわかることもある。