断れる方だとは思っているが、ものによってはあまりあてはまらない。
そんな自分の、断れなかったことと断れたこと、そこから考えたことについて書きたいことを書いていきたい。
断れなかったペナルティ
10歳くらいのとき、「好きな人を言う」という遊んだ後のペナルティに当たってしまい、言いたくないのに馬鹿正直に好きな人を言ったことがある。
おそらくペナルティを決めるときは面白ろ半分だったのだろうが、いざ自分がとなると本当に言いたくなかった。芸能人にするとか適当に答えるとか、答えずにはぐらかすとかできただろうにできなかったし、しなかった。別に言いたくなければ、言いたくないと言えばいいし、それが通らないのならその場から帰ったってよかった。
遊んでいたのが初めて遊ぶ友人で、慣れてないから逆に言いずらさも感じた。揉めるのも避けたかった。でも、言いたくないことを言った後、一人で家に帰る途中に、自分で自分がいたたまれなくてしかたがなかった。涙で目がしょぼしょぼした。
職場の同僚の頼みを断る
職場のある行事に出ることになって、同じく出たがっていた同僚に変わってほしいと頼まれたが断った。変わることは"公平ではない"と考えたから。
いわゆる対象者の中からの抽選であって、同僚にとってその行事に出ることが重要な意味を持っているらしかった。
選ばれることを望んでいたわけではないから変わってもよかった。かといって狡猾なことをするのも当時の自分の指針に反した。断ったら同僚とのそれなりに穏便な間柄が崩れるかもしれないと大いに思ったけれど、断った。
金曜の夜だったか家から長々とメールを打ち、それから携帯電話に電話した。断った後も同僚との同僚としてのつきあいは変わらなかった。
断ることが怖いのはなぜか
私が恐れていることに、「人から嫌われること」がある。今では、いろいろな人がいるから嫌われることもある、くらいには思えているが、先ほど書いたことがあった頃の自分は人から嫌われることが怖いと思っていた。
断るということは、相手の気分を害すること、相手の気分を害するものは嫌われると思っていた。そしてこの思考回路は、自分が断られたときにも発動することがあった。
誰かに何かを断られたときに、「もうその人のことは嫌いである」という方向に行く。しばらく経つとそんなことはないと思い返すのであるが、もう一部を全部としてしまう考え方の癖である。
さらに言うと、自分は断るのも怖いが、同時に断られるのも怖かった。
何かを断られることは、自分の要請のみならず自分の身一切の拒絶のように捉えがちだったからだ。
断っても断られても
相手にも自分にもそれぞれ事情があるのだから、相手にも自分にも断る自由がある。
ならば断るのも断られるのも、怖い気持ちは湧くかもしれないが闇雲に怖がることではない。
断ったり断られたりしながら、お互い納得できるものを模索する。
身近なところから、そんなことをやり始めた。