語る、また語る

いつもにプラスα

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同も異も見出す

自分の何もかもをわかってもらえるような友人がほしいと思っていた。どことなく気が合ったり、共通点があるとすぐに間合いを詰めて、意見がぶつかりそうになると深入りしないようにした。「異」であることは疎外される恐怖に直結していたからだ。どうりで自分を守ろうとしていたのに、恐怖は増すばかりだったわけである。

「気が合う人 いない」と検索して読んだ。内容などすぐに忘れた。十年くらい頭の片隅はもやもやしていた。

自分と完全に一致するものを見つけようとしても、まったく見つかる気配はない。それはそうである、自分と完全に一致するものなど、自分しかいないのだから。

長い葛藤の末に見つけたのは、自分という友人であった。私はずっと自分を探していたのかもしれない。


これはこの人に話しやすい、こっちはあの人と価値観が近い、これらが深まるのはその人しかいない。完全に一致しなくても、部分部分が似ている友人たちの存在がある。

友人の数が多いのが良いとは思ってはいない。自分と完全に一致する友人が一人だけいるよりも(もちろんそれは素敵なのだけど)、ちょっとずつ似ているところがある友人が複数いるのも、楽しいことだと考えるのである。


もっと話したい自分と、買いものをしたい友人。別行動でもいい、でも買いものしながら*1話すことができる。

あるものの価値観は近いのに、あるものの価値観がまるっきり逆だ。それでも友人の話は面白いし、自分ことがよりはっきりする。


むかしのように「異」を感じたときに遠ざけて見ないようにするのではなく、居心地は良くないとしても認めたいと思える。ネガティブになることもあるけれど、「異」にあたたかく迎えようとすると、友人に関わらず人と話すときに、ほのかな愉快さに照らされていることがわかる。

数年振りに会った友人との写真を眺めながら、関係の質の高まりの気づく。

*1:真剣な買い物ではない。