語る、また語る

いつもにプラスα

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声に出すと強い

話の途中で「お互い対等というかさ」と聞こえたものだから、思わず友人を二度見した。たいとう、タイトウ、対等といくらか変換してからようやく漢字があてはまった。対等か、文章で読むことはあっても、声に出したことはない気もする。

「こうしようとかこうありたい」とか、わりとここには書いているつもりであるし、文章を書くことで「こうしようとかこうありたい」が感情に暗示されているのだろう。自分が何を考えているのかを表す言葉はめきめきと出るようになった。

出てくるようになった言葉を反芻してしまってネガティブになることもあるが、逆に出てくるようになった言葉を声に出して目の前の誰かに伝えて、相手に伝わった手ごたえを感じることもある。文章でも声でも、今までが本当に伝えたい言葉を外に出さなかった、もしくは言葉にできなかったから出せなかったことを考えると喜ばしい変化であると思う。

日々言ったことや言わなかったことを文章にしているのだから、おそらく文章だけで止めておくのはもったいないのである。文章にできるということは言葉を持っているということで、言葉を持っているということは、声に出して人に伝えることもできるということだ*1

「対等」を口にした友人にあやかりたいと思ったし、文章にした言葉を声に出すと、そこにこもった感情はより強く自分に働きかけてくる。頭で考えているときは頭に意識されている。文章に書くとそれに目が加わる。そこに声もということになれば*2、三点で言葉に接触したといえる。

文章なら書けるのだけどということなら、よっぽどの書き言葉でないかぎり、あとは声に出した言葉として使い慣れていないだけだ。伝えたい言葉を文章にできるのだから、もしくは文章を読んで私が言いたいことはこういうことだったのだと感じるのであれば、それをもっと使ってみてはどうか。少なくとも私は、自分の持っている言葉を、見計らってもう少し声に出してもいいのだろう。

*1:罵詈雑言は除く。

*2:台本を見ながら相手と話すということはないけれども、電話の前に話すことを書き出す風に。