語る、また語る

いつもにプラスα

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自分から閉ざすのはもったいない

自分にないものを持っているように見える人に、自分から話しかけに行っていったい何になるのだろうと思っていた。話が続かないときや相手にされていない気がするときはまだしも、わるい感じでもないとき、なんだ、別に立場とかではないのかもしれないと思った。こちらが勝手に自分を卑下していただけであって、というか、私が自分を卑下していようがいまいがなど、会話の足しにすらならず、こちらが会話をしようとするかしないかにかかっている。

どんな人でも何かを抱えているものだと、誰かに言われて、そうなのだろうとは感じていたが、ほんとうにそうなのだと思える割合が増した。その人にはその人なりの"何か"がある。いや私の方が辛いからと、辛くなさそうに見える人を心で睨んだとしても、だからどうしたのだろうか。

主観的に見て辛そうな方が偉くて、そうでないと偉くないとでも言いだしそうな、いやそのように自分は辛いから偉いように開き直って、人に自らを閉ざしていたのは自分自身だった。自分の方が辛いと私が思うのは自由だが、だからといって関われる人たちを遠ざけるというのも寂しいものである。

私は親しい人たちとは、自分の狡さや愚かさや葛藤を一部でも話せることを望む。自分が話してみると相手もそういう部分を話し始めることもあるし、そもそも込み入った話にならないこともある。幼児に葛藤と言ったところでわからないように、言葉を選ぶことも必要だ。どういった相手であろうと、自分と相手どちらもへの"思い込み"によって、話せるものも話せなくなることはもったいない。

違う者同士でできる会話というものも、あるはずだ。