2025-04-01から1ヶ月間の記事一覧
わからないと言われて、わからないなりにも何かあるでしょうと思っていたけれど、ほんとうにその時点でわからないことはわからないのである。先入観を持っていたとしても、あくまでも先入観である。わからないことがあって、それをわかりたいから一日がある…
人は生まれてからまず、自分のことを気にかけてくれる人を信じる。いろいろあるとは思うが、まずその対象は親である。それらは年とともに広がって、身近な人であったり友人、恋人などにおかれたりもする。はじめは親に注いでいたものが分散していくというこ…
思いもよらないことは、自分を取りまくことの流転でもある。これまでが通用しない、むしろこれまで接してきたことが剥き出しになる。予測できるものとしての自分のこれからに、予測できなかったこのときにいる自分がひるんでいる。「こうすればこうなる」が…
自分の心に形があるとしたら、それは丸っこいかもしれない。つるりとしているようだが全体に"ひだ"があり、ところどころににぎりこぶしより少し小さいくらいのくぼみを呈している。"ひだ"は中にも外にもすべてにある。MUSTAFA*1「What good is a heart?」。…
「Dance in the rain」とはよく知られた言い回しらしい。日本語にすると"雨の中で踊る"。この"雨"が困難などを表すとすると、何やら教訓めいている。 I will not wait for the storm to passI’m learning to danceDance in the rain嵐が過ぎるまで待つつもり…
外傷は見えたとして、内なる傷は見えない。自分だけが傷ついていると思うとき、たしかにその傷ついた出来事は自分だけのものかもしれないけれど、自分以外の誰かにも傷つくことはあるだろう。言葉にしてもしなくても、心情や感情は実態として目には見えるも…
やらなければならないことがなくなるとそこに空きが生まれるわけで、その空きで何もしないもよし、何かをしてもよし、やらなければならないことにこれまでいかに自分が自分の資源を投入していたかに気づく。限りある自分の資源を何に分けていくか、誰かにや…
想定していないことは往々にして起こり、それらによって不確実性への構えができたり、突発的なことを静かに見守ることができるのかもしれないが、あくまでも一部でのことである。気にしてなかったというところで、予想外のことがある。どれだけ長くつきあっ…
アスファルトに、どこからか運ばれた桜の花びら。動かない自分の目印のために、植物の花の色や香りがあるとすると、桜は花びらによって、その場にいながらその存在を広く感じさせる。舞っている花びらにも、離れている木から続くものがある。桜の木とその下…
私は一人で、歩いて吊り橋を渡っている。吊り橋というものは、自分一人で歩くだけでも橋が予想もしない動きをする。よろけそうになりながら、体もくねくねとする。足を止めて一呼吸していると、ふいに吊り橋が大きくぐらりとする。先には続く吊り橋のみ、背…
わかります、自分もそうですと言われると、自分のことをわかってもらえた気がしていたが、あくまでも相手のなかでのことであると私は何を期待していたのだと思う。相手なりのわかります、自分もそうですは会話の広がりを担っているかもしれないけれど、そこ…
休日になればどこかに行かなきゃいけないような気がして、食べて寝たとなれば何もできなかったと悪いことをしたように感じ、私にとっては何か身になることをした休日こそ良い休日であった。しかし、"何か身になること"とは何であろうか。それは仕事に直結す…
幼年の歩みは目まぐるしい。それが様式ではあれその変化の波を乗りこなし、悠々と泳いでいく。月日は長く、出来事は大きい。この身に著しい歩みは見られない。変化を背に立ちすくみ、まず息をすることを疑う。月日は短く、出来事は小さい。自分にもたらした…
市街地の国道は騒がしい。信号待ちの車からのアイドリングからアクセルをふかす、列をなすタイヤとアスファルトがこすれる、路面を輪がすべってブレーキをかけるとレールがきしむ、横断歩道にある反復についてくる行進、それこそ音の嵐。空気によって遠くか…
何かこう通っていない反応というのがある。それは気持ちかもしれないし、感情なのかもしれない。「ありがとうございました」と言われて、それ九割九分「ありがとう」と思っていないはずだと取れるありがとうございましたに、通っていなさを感じながらその場…
散らかったものをしまうなり、決まった場所に戻すなりしてから掃除機をかけようとすると、そもそもその片づけに取りかかれない。片づけをしてから掃除機をかけるか、片づけながら掃除機をかけるかの違いである。それなりに片づいたら掃除機をかけ始めないと…