語る、また語る

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役に立つとか立たないじゃなくて、自分を認める~稲垣えみ子「寂しい生活」~

自分の中で
なんとなく思っていたけれど、
上手く言葉にできなかったことが、
本に書かれていた。

読んだのは、
稲垣えみ子さんの「寂しい生活」。
(内容に触れています。)

タイトルから、暗い本なのではないかと
思うかもしれないが、
とても前向きな本である。

著者は、一人暮らしで、築50年近い
ワンルームマンションに住んでいる
50代後半の元新聞記者である。

東日本大震災の節電をきっかけに
あらゆる家電を手放し始め、
電子レンジも冷蔵庫も
洗濯機もテレビも捨て、会社も退社。
月150円台の電気代に、エアコンはなし、
食事はカセットコンロで炊く飯と
みそ汁(具の野菜は冷蔵庫が
ないため干して保存)と漬物、
ガス契約も止めたため銭湯に通うという
暮らしをしている。

家電をほとんど手放したことで、
著者は、家電と家事の関係について
考えを深めていく。

この本によると、
家電というものは、
家事を面倒くさいものとした上で、
それを解決するためにつくられ、
今もその機能は多様化し続け
複雑になっているとのこと。

同じように、
これまで家事を面倒くさいことに
分類してきた著者であったが、
さらに突き詰めていくと、
自分の時間も分けていたことに気づく。
「無駄な時間」と「役に立つ時間」とに。

「無駄な時間」というのは、
家事などの面倒くさいことをする時間。
それは評価されず、お金にならない。

「役に立つ時間」とは、
その逆で評価されて、
お金になる時間のこと。

その続きに書かれていたことが、
”なんとなく思っていたけれど、
上手く言葉にできなかったこと”だった。

考えてみれば私はこれまでずっと、他人と差をつけて豊かになろうとしてきただけじゃなかった。その戦いに勝つために、つまりは他人より上に立つために、自分自身の時間も差別してきたんです。(後略)
さらに言えば究極のところ、私は口ではどんなきれいごとを言っても、世の中には無駄なこととそうじゃないことがあると、分けて考えていたわけです。時間だけじゃない。人間もそう。腹の底では、「世の中には役に立つ人間と、役に立たない人間がいる」と思ってきた。で、私は役に立つ人間でいたい。無駄な人間ではいたくない。ずっとそう思い続けてきた。

何かの役に立ちたいと思うこと自体は悪いことじゃないと思います。(中略)ただ問題は、いつの間にか「役に立たないもの」を排除し、軽蔑するようになること。「何かの役に立つこと」ではなく、「役に立つ自分」でいることだけが目的化していくことです。


会社員だったとき、
子育てしながらお金を生み出しているから、
自分は役に立つ人間だとか、
おこがましいことを思っていた。

でも自分がそうじゃなくなって、
そんな自分勝手な論理は、
脆くも崩れ去ったのである。
役に立たない人間になってしまったと、
悶々としていたときもあった。

でも、そういうんじゃないのだ。
役に立つとか立たないじゃない。
そういう視点になってしまうから、苦しい。

私は何に縛られていたのだろうか。

それは、自分自身にである。
自分で自分を縛っていただけ。


また本にはこうもあった。

そういう考え方をしていると、
誰もが「役に立たない」存在に
転落していく恐怖に怯えて
生きていかなければならない。

その恐怖から脱する道を
著者は次のように書いている。

この世の中に「役に立たないもの」なんて一つもないんだ!と、思い込むことです。

日常の中の「無駄だ」「役に立たない」と
思っていたことを
心を込めて一生懸命やると、
なぜだか面白くなってきちゃうものということらしい。

家電を使わずに生活するようになって、
それまで面倒くさいと思ってきた
家事が楽しくなったという
著者が導き出した答え。
(私としては、
時間的余裕ができたことも、
家事を楽しめるようになった
一つの理由ではないかと思っているが)

私が著者と同じように
家電なしの生活をして、
家事が楽しいと思えるかは別だ。

ただ、
この世の中に「役に立たないもの」は
一つもないと思うのも思わないのも
自分次第ということなのである。

「役に立たない」なんて思って、
自分で自分を認めてあげなくて、
どうするのだ、自分よ。

どうしても自分を
認められないときもある。
そんなときも、
自分を認められない自分を
認めるのだ。