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きびしいやさしさには、気楽さと寛容さを~森真一『ほんとはこわい「やさしさ社会」』より~


きびしくなったやさしさ*1によって、
どんな現象が起きているのか、
そして、やさしさ社会への向き合い方を
まとめます。

「こわれもの」としての自己

きびしいやさしさ
(予防的やさしさ)によって、
ひとびとは「こわれもの」のように
あつかわれるようになりました。

うかつにさわれば、
すぐに傷ついてしまうのですから、
慎重にならざるをえません。

たとえば、
子どものこころを傷つけると
こわいことが起きるというイメージです。

傷つけないように傷つけないようにと、
きびしいやさしさ(予防的やさしさ)で
育てられた子どもが大人になって、
「傷つけられたら、許さない」と
無意識のうちに考えるように
なったのではないかと、
著者は述べています。

傷つくことに"慣れていない"から、
ちょっとしたことで、
怒ったり、落ち込んだりするとも
いえると思います。

人それぞれがわからない

人を傷つけないようにといえど、
何をしたら傷つくかは人それぞれです。

年配の方には席を譲ったら、
感謝されるかもしれないけれど
気を悪くする人もいるかもしれないから、
迷って慎重になってしまう。

人それぞれを満たすことは、
窮屈な側面もあるのです。

楽しくふるまう裏にあるもの

きびしいやさしさは、
表面上は傷つけないように
やさしくふるまうのですが、
見えないところでは、
どんどん傷つけようとするといった
ことが起きます。

インターネットやSNSにおける
匿名での誹謗中傷などが
これにあたるでしょう。

いつも楽しいはありえない

人生は楽しむためにあるのだから、
相手も自分も傷つかないように、
対等性の原則を意識して、
楽しく過ごすというのは、
現実的ではないと著者は書いています。

いつも楽しくというのは、
無理があるということを
心にとめることが必要ということです。

それから、傷つけないようにと
慎重になるのではなく、
傷つけてしまうかもしれないけれど、
そのときは謝って関係を修復するという
寛容さ、気楽さをもちたいと結んでいます。


気の持ちようで変わるという
単純な社会ではないと思いますが、
近ごろの「自分のままで」のような
メンタルについての書籍が売れている
現象などを見ると、
みんなきびしいやさしさに
つかれているのでしょう。

わたしの人とのかかわり方も
きびしいやさしさになっているのは、
間違えなさそうでした。

気楽さと寛容さで、
バランスをとっていきたいものです。

参考文献  森真一著『ほんとはこわい「やさしさ社会」』、ちくまプリマ―新書、2008年