この切なさは何だろうと、
しばらく考えていた。
益田ミリさんのエッセイ集
「そう書いてあった」を読んだ。
印象に残ったエピソードが二つあった。
まずは、黄色いワーゲンについて。
著者が小学生のときのルールで、
一日に黄色いワーゲンを三台見られれば、
良いことが起こるというものがあったという。
休み時間になると、
他の生徒と一緒に教室の窓辺に並んで、
黄色いワーゲンを見ようと
道路を見張っていたんだとか。
このルールのすごいところは、
三台以上見た人が余分を
他の人にあげられるという点だったらしい。
その思い出を受けて、次の文章が続く。
愛や友情。
大切なものは目には見えないと大人は教えてくれたけれど、あの頃のわたしたちは、脳内の黄色いワーゲンを、あっちこっち、気軽に動かしていたのである。
次に、
「ね、今度さ」という言葉について書かれたもの。
著者は友人と一緒に
「ね、今度さ」と言って、
次にしたいことの約束をしていく。
話が弾む中で、著者はこんなことを思う。
「ね、今度さ」という言葉が自分の口から、または友の口から出るたびに、楽しい気持ちになる。と同時に、どこかちょっとさみしくて、そのさみしさとは、少しずつ減っていく自分の未来を感じるからである。
一年がびっくりするくらいはやい。
大人たちが、そんなことばかり言っているのが、子供のわたしには不思議でならなかった。一年は、とてつもなく遅いものだった。けれど、ようやく、今になって謎が解けた。「はやい、はやい」と口に出すことによって、さみしさを静かに分かち合っているのである。
そして、
日々どんどん貯まっていく
「ね、今度さ」について、
こう結んでいる。
貯まったぶんを使い切れないうちに人生が過ぎてしまうのだろうが、貯められるだけ貯めればいいのだ。
どちらにも共通するのが、
読み終わった後、
ほんのり切なくなるところだった。
切なくなるわけを知りたくて、
何日かときどき考えてみて、気づいた。
ワーゲンの話にも、
「ね、今度さ」の話にも、
過ぎた時間は戻らないという事実が、
ひっそりと隠れているからなのだ。
脳内の黄色いワーゲンを、
あげたり、逆にもらったりした
小学生の頃はもう二度とやって来ない。
「ね、今度さ」と言って、
未来を楽しみにしている今も
その今度が訪れたときには、
もう過去のことになっている。
時間は過ぎていき、
巻き戻すことはできない。
それを知っているからこそ、
エッセイ集の中の二つのエピソードに、
私は切なさを感じたのだろう。
今を大切にとか言ってられない
余裕のないときもあるけれど、
二度とない今の尊さは
忘れずにいたいと思うのである。