私は、いい人でありたいと思うあまり、
怒りや哀しみを感じても、
笑おうとしてしまうところがあった。
いつも笑っている人が、
いい人なのかと言われると、
何か違う気もするが、
外面は努めてそのようにふるまっていた。
だから、
人あたりがいいと言われたこともある。
誰もが感情のまま行動していたら、
収拾がつかないであろうし、
笑うことは私なりの
処世術であったとは思う。
ただちょっと度が過ぎるというか、
気を張りすぎていた感はあった。
今、一つ屋根の下で暮らす家族の前では、
かなり奔放にさせてもらっているから、
あくまでも、
一歩外へ出たときの話ではあったのだが。
感情をあっけらかんと
表に出せる人を見ると、
うらやましいと思ったりした。
自分も、喜怒哀楽の「怒」と「哀」に
もっと素直になっても
いいのかもしれないと思った。
そんなことを、
折に触れて考えていたら、
ちょっと前に読んだ本で、
あるエッセイが目に留まった。
ほしいものというタイトルで、
若さがほしいという話から、
戻れるとしたら何歳がいいかと展開される。
著者が友人たちとその話題になったとき、
戻れるとしたら38歳くらいがいい、
ということになるらしい。
その理由は、
見たところ33~34歳で十分若く、
”それでいて、強くなってきたなと、
自分自身感じることができる年齢”だからとのこと。
それからこのように続く。
いい人と思われたい、思われなければならない、という気持ちから解放され始める頃でもあった。
若者は、自分が望む「いい人」のハードルが高い。理想の旗を振りつづけ、こりゃちょっと無理だわな、と一旦、旗を降ろすのが30代後半だろう。
この部分は、
全体のテーマ(大切な人との別れ)からは
外れているのだが、
思わず、うん、うんと大きく、
ゆっくりうなずいてしまう。
中には、いい人でいようなんて、
端から思っていない人もいるだろうか。
私も、自分なりの「いい人」の旗を
振りつづけ、ここへ来て
降ろしたのかもしれないと思うと、
少し可笑しかった。
30代後半は、人にもよるとは思うが、
そこそこ経験を積み、
でも20代から30代前半までのように
勢いで突っ走れる訳ではない。
八方ふさがりになりつつ、
少し吹っ切れてくる年ごろだったりして。
四十にして惑わずにの準備期間みたいな。
(四十にして惑わずになれるかは
また別の話…)
日々、大なり小なりの
やっかいごとは付いて回るけれど、
気持ちだけでも気楽にいきたいと思った、
35歳も終盤の、夏。