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東畑開人『心はどこへ消えた?』~がんばりすぎていた、傷ついてもいた~

わたしは、勤続十数年、共働き十年、
共働きと育児六年の末、
働くことを止めた身である。

退職してから1年が過ぎたけれど、
たまにあの怒涛の日々を
思い出すことがある。

辞めたことは後悔していないし、
むしろよかったと思っている。

けれども、
あのときこうすればよかったとか、
あれはそういうことだったんだとか、
過ぎたからこそ気づくこともあるから、
ときたま頭の隅から引っ張ってきては、
ぼんやり眺めるということを
未だにしている。

仕事と生活を分けるのなら、
ずっと仕事のために
生活していたようなものだった。
今なら逆でしょと言いたい。

がんばりすぎていたところに、
職場環境の変化が重なり、
適応障害にもなった。
それでもまだがんばり続けた。

コップの水はすでにあふれていたのに
それに気づいていなくて、
またドバっと水が注がれて、
コップが倒れて足元がぬれて、
ああ、もうだめだったんだと
わかったような感じである。

そんなようなとりとめのないことが、
頭に浮かんでは、
どこかへ流れて消えていく。
このごろは、
ずっと考えてしまうということは
あまりないから、
まあメンタルとしてはよい。


先日、臨床心理士の東畑開人さんの
「心はどこへ消えた?」を読んだ。

自身のクライアントとの
エピソードを交えながら、
さらりと、そしてそっと
心のしくみが見えてくるエッセイ。

読みながら意識されたのは、
わたしが「傷つく」という表現に
吸い寄せられていたことだ。

傷ついた自分、傷跡、
誰にも言えない傷つき、
心が傷ついている、心の傷ついた部分。

すべて引用だが、「傷つく」という言葉が、
わたしが感じてきたことをあらわすのに
ぴったりに思われたのだ。

この1年間、
わたしはがんばりすぎて疲れたから、
それで身体に症状が出たのだと
思っていたが、そこには、
「傷ついた」という視点が欠けていた。

そうか、わたしは、がんばりすぎて疲れて、
また傷ついてもいたのだ。

わたしも傷ついたし、きっと、
相手も傷つけていたんじゃないだろうか。

これからは、
その傷ついた心を癒していこう。

いつもつくり笑いをしながら、
心はボロボロだったむかしの自分が、
「やっとわかったのかよ」と
ひかえめに笑った気がした。